初めて教会にこられる方へ
疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の元に来なさい。休ませてあげよう。
― マタイ福音書11章28節 ―
教会に行ってみようかな、でも誰も知っている人はいないし、紹介もないのに行ってもいいのかな、と思っておられるかた、どうぞご遠慮なく教会にいらして下さい。
悩み、苦しみを抱いておられる方、反対に仕事も、生活も順調ではあるが、何か人生の大切なものを見失っているのではないかとお考えの方、どうぞ教会をお訪ね下さい。
このような時にこそ、神はあなたに呼びかけておられるのです。この呼びかけに応えるのは全くあなたの自由ですが、これに応えることによってあなたの人生は全く異なったものになるかもしれません。勇気をだして教会に行ってみましょう。
人は生きている限り、苦しみ、悩みが尽きることはありません。キリスト教はこれらの悩み、苦しみ自体を直ちに取り除いてくれるものではありませんが、その意味を知り、それに立ち向かう勇気と力を与えてくれるのです。また、あなたの人生に新しい価値観を与え、言い換えればあなたは新しい景色に彩られた人生を送ることになるでしょう。

教会はいつも開放されています

教会の聖堂は午前7時から夜9時までいつでも開いていますので、ご自由にお入り下さい。そこには都心とは思われない静かな、暖かい雰囲気に満たされた祈りのための空間があります。
麻布教会には幼稚園もあり、開園中は保安上、時折、入り口の閂がしまっていることがありますが、そのときはご遠慮なさらずにインターフォンを押して下さい。受付係がご案内いたします。また、司祭とお話をされたい方は受付係にお申し出下さい。聖堂の左右の入口を入った横の机の上には「はじめて教会にいらしたあなたに」という小冊子のほかに、「こころ」という麻布教会の月刊誌などがありますのでご自由にお取り下さい。

日曜日のミサにいらっしゃいませんか

カトリック教会では教会で行われる礼拝をミサと言います。ミサは日曜のほかに信者同士の結婚式、葬儀、追悼など重要なときに捧げられます。それはイエス・キリストの死と復活を記念して行うもので、私達もまたキリストの復活にあずかることができることから感謝の祭儀ともいわれます。
ミサは大別して「ことばの典礼」と「感謝の典礼」から成り立っています。
「ことばの典礼」でははじめに旧約聖書の一節がよまれ、ついで詩篇を皆と共に歌い、そのあと新約聖書の中にある使徒の書簡が読まれます。その後、司祭が福音書の一節を朗読し、それについての説教が行われます。 「感謝の典礼」ではパンとぶどう酒と献金が奉納され、司祭によってパンとぶどう酒はキリストの御体と御血に変化され、そのあと、信徒はその御体と御血を頂きます。これを聖体拝領といいます。ミサは全世界のカトリック教会で行われ、同じ聖書の箇所が読まれ、同じように聖体拝領が行われます。これによって全世界の信徒はキリストを頭とする兄弟姉妹・一つの家族になるのです。聖体拝領は英語ではcommunionといいます。Com は共に、unionは一つになるということなのです。あなたが信者になり、外国へ行き、そこでミサにあずかったとしましょう。その国の言葉が分からなければ、司祭の説教は理解できないかもしれません。しかしミサは全世界同じ形で進められますからあなたは充分についてゆくことができます。そして聖体を頂くことによりあなたはその国の共同体(教会)の一員でもあることを体感し、家に帰ったような気がすることでしょう。ミサに行くことは、まさに父の家に帰ることなのです。 初めての方はミサに来られてもなかなかついてゆくことが難しいかもしれません。できれば初めて来られた方は「案内係」にお申し出下さい。「案内係」はあなたと共にミサにあずかり、ミサのご案内を致します。

聖書の勉強をしてみませんか

キリスト教に興味を持っておられる方、あるいはまた信者になりたいと考えておられる方は「入門講座」にお出で下さい。「入門講座」は毎土曜日の午前11時から聖堂の後方にある司祭館の応接室で行われます。お仕事の関係などで、この時間がどうしても無理な方は、司祭にお申し出下さい。司祭は時間の都合がつく限り、他の時間にその機会を設けて下さいます。
キリスト教とはキリストを信じる宗教です。キリストを信じるということはどういうことでしょうか。それは、私達の罪のために独り子であるキリストを十字架につけてまで私達一人ひとりを愛そうとしてくださる神の愛を信じることです。あなたが聖書を勉強し、少しでも神の愛に接し、自分の生涯を神にかけてみようかと思われたら、ためらうことなく洗礼をうけましょう。洗礼は古い衣を脱ぎ去り、新しい衣をつけることなのです。新しく生まれ変わることなのです。洗礼によってあなたはその瞬間から神の国の住民、神の家族の一員、そして私達全世界に広がる共同体の一員となるのです。
聖書はよむだけでも素晴らしいことが書かれています。しかしそれはあくまで教養の域を超えるものではありません。それはちょうど缶詰のラベルを読むようなものかもしれません。ふたを開けて食べてはじめて栄養になるのです。聖書の言葉も信徒となって「味わう」時にはじめて血となり肉となるのです。
日本人は家の宗教、先祖を祭る仏壇などがあり、キリスト教の信者になることをためらう方々もおられます。そのようなご心配は要りません。どうぞ司祭に何でもお尋ね下さい。
私達はあなたが、私達共同体の一員として加わって下さることを心から願い、祈っております。